2020年5月18日に発売された”週刊少年ジャンプ24号”にて鬼滅の刃は最終話が掲載されました。前話に当たる第204話の煽り文で『そして時は流れ時代は現代!!!』と明かされていましたが、皆さんは最終話をどのように受け取ったでしょうか?
ぼくは正直なところ最終話に対する考えがまとまっていません。
そこで最終回を目前に控えていた5月16日に”ねとらぼ”にて大変興味深い記事が掲載されていたので、その紹介をしたいと思います。
そして今回はそれを受けた上でさらに考えたことをまとめていきます。
はじめに
まず、ねとらぼにエントリーされた記事(以下、エントリーと表記)を要約します。エントリーの著者は高島鈴さんです。
エントリータイトルには『レビュー』とありますが、ぼくは鬼滅の刃批評として読ませてもらいました。以下の概要はそのような視点に立つものだという前提でお読みください。なお、まことに勝手ながら以降は敬称略とさせて頂きます。
エントリーの概要
高島は読解に<感情>という軸を導入し、被害者遺族と言う立場から鬼殺隊の抱える当事者性を見出しました。また、鬼滅の刃に見られる特徴として会話のズレを指摘し、吾峠呼世晴(以下、ワニ先生)の独特なフレーズを状況の理解が共有されない(=ズレがある)まま進行するユニークで愛おしいものとして好意的に評価しました。さらにワニ先生の過去作品を参照しつつ、近年のジャンプ漫画における流れを出来事と語りの距離の近さと表現し、鬼滅の刃もその例に漏れないと指摘します。
高島のエントリーが既存のレビューと大きく異なる点は、鬼滅の刃の持つ魅力を語りながらも、はっきりと作品の抱える違和感(危険性)を訴える内容になっていることでしょうか。
高島は批判の核心部において鬼滅の刃における走馬灯と追悼に着目しました。
以下に該当部分を引用します。
『鬼滅の刃』では、鬼も人も走馬灯を見ます。この走馬灯と追悼は、鬼の死においても隊士の死においても象徴的な役割を担っています。『鬼滅の刃』で表現される死は、どれもむごく悲しく苦しいものです。しかし死の間際、その人物の(鬼であれば人であったころの)人生のハイライトとなる記憶が回顧され、抱えた後悔や苦悩、鬼であれば鬼になるまでのエピソードが入り、それらが死によって精神的に清算されます。
(中略)
『鬼滅の刃』の死は、飲み込みやすい死です。受け入れがたい不条理さや耐え難い痛みは作中で咀嚼(そしゃく)され、読者の喉にはほとんど残りません。この点については賛否両論あるのでしょうが、私は違和感を覚えています。痛みや責任を負わなくてもよい死を歓迎することは、たとえフィクションであっても、死の消費ではないかと考えざるを得ないからです。『鬼滅の刃』が死の消費に向かって道を開いている可能性は、少なからずあると思います。
高島の主張をまとめると『鬼滅の刃においては走馬灯と追悼によって飲み込みやすい死が演出されており、それは死の消費になっているのでないか』ということになるでしょう。
ぼくは以前の記事で、高島の言う感情を”台詞”と表現し、非人間的な無感情を”ロジック”と表現しました。鬼殺隊の行動の基本概念を”台詞”に置き、鬼の行動の基本概念を”ロジック”に規定したのです。
ですがこの観点からの読解をぼくは、上手くまとめることが出来ませんでした。そういう意味で今回の高島のエントリーにはとても助けられています。細かく比べていくと異なる部分もありますが、ぼくの抱えている違和感や”台詞”で鬼滅の刃を読み解くという観点では重なる部分が多々あり、非常に勇気づけられるエントリーでした。感謝しています。
エントリーを受けて
以下では高島のエントリーを踏まえ、自分なりの鬼滅の刃批判を試みます。
さて。
高島はエントリーで鬼殺隊は被害者遺族で構成されるという興味深い指摘をししていました。 そのために隊士たちには当事者性が生まれ、鬼たちの反省・後悔の欠如を非難する正当性(=感情的に明確な理由)が担保されるのだ、という論理展開です。
そしてこの正当性により倒された鬼たちは走馬灯を見ることによって死が精神的に清算されるのだ、と続けます。さらに高島はこの清算をうけたのちに追悼が行われることによって、<死を呑み込み(エントリーでは”飲み込み”であったが、本記事では意味を踏まえてこちらの変換を採用した)やすいもの>に昇華していると訴えました。
この昇華が見事であるがゆえに死の消費につながっていると批判するのです。
*エントリーにある<痛みや責任を負わなくても良い死>の部分について、ぼくは<(感情移入している読者が)痛みや責任を負わなくても良い死>と理解しています。*
ぼくは高島の読解に同意しつつも、走馬灯と追悼による無責任な死の消費ではなく、”被害者という機能”と”超身体的能力”によって肯定される鬼滅の刃全体に配置された”暴力”を問題視します。そして高島のいう死の消費もその暴力の一部である、と視野の拡張を試みます。
さらにその上で、基本的には読者の【目線が被害者(=鬼殺隊の一員)】に重なるように演出される一方で死の清算の場面、ぼくが”浄化フェイズ”あるいは”感情的儀式”と呼ぶもの、では【読者の目線を”被暴力者(=鬼)”に重ね合わせる】器用さを指摘します。
それでは、具体的に見ていきましょう。
被害者という機能
高島が指摘するように、鬼殺隊は基本的に被害者遺族で構成されています。ここでは被害者遺族になることを”被害者機能の獲得”と表現することにします。
高島は、鬼殺隊は被害者機能の獲得によって当事者性を持ち、そのために鬼を殺すという暴力についてある一定の正当性を与えられたと指摘しました。
ぼくはここで高島とは異なり被害者機能の獲得を一方的な暴力性の獲得に接続してみようと思います。
一度、高島のいうズレに焦点を合わせましょう。高島は、鬼滅の刃に見られる会話は状況の理解が共有されないためにズレて行くと書いています。また、ズレは日常パートで機能し、戦闘パートでは感情にその主眼が移るとも主張しました。
ですがぼくは、このズレを戦闘パートにも見出します。つまり高島の指摘したズレこそが鬼殺隊に一方的な暴力を獲得させるのだ、と読み解くのです。
ズレは価値観の衝突しない場面では互いの不干渉を保ち、心地よさを提供します。その一方で、価値観の衝突する場面ではまさしく暴力に結びついているのです。そして鬼滅の刃はその”暴力”を肯定していると考えます。
どういうことでしょうか?
鬼殺隊の暴力について
過去の記事でも重要な場面として参照しましたが、ここでもやはり単行本第14巻に収録されている第116話『極悪人』を見てみましょう。
コレは、鬼を殺す力を持つ炭治郎(≒鬼殺隊)に対し、上弦の鬼が『小さくて弱いものを殺そうとするお前らが悪人なのではないか?』と問いかける場面です。
炭治郎は鬼に、『大勢の人を殺しておいて被害者ぶるのはやめろ!!』と返し『ねじ曲がった根性である』と断じます。そしてその台詞の根拠となるのは、炭治郎自身が言うように『匂い』という"超身体的能力"に裏付けられるものです。
ここで思い出すべきなのは「鬼は主食が人であり、人を食べなければ死んでしまう」ということ、及び、「鬼になったことが本人の意思によるのか否か分からない」ということです。加えて、炭治郎は妹の禰豆子が鬼になった際にそのことを痛いほどよくわかっているはずなのでした。
確かに作中では『鬼は人を食べると強くなり、その強さを求めるために人を食べているのだ』という描写もなされます。ですが、この場面で炭治郎と対峙する鬼に関し、なんのために人を食べているのか、鬼になって何年がたっているのかなどの客観的情報は全く話題に登りません。
炭治郎は自らの嗅覚=”超身体的能力”を過信し、一方的にズレを鬼に押し付け、挙句の果てにはそのことで鬼を切り殺すのです。
実際には鬼がどれくらいの人を食べたのか(殺したのか)?
また、人を食べていたとすればその目的は何だったのか?
鬼はなぜ鬼になったのか?
そしてこれらのことが鬼殺隊の隊員に理解できるような形で提示されることは殆どありません。高島が指摘したように鬼滅の刃においては<出来事>よりも<感情>で物語が描かれるからです。
このような視点で見ると、鬼殺隊は自らが被害者であるという”被害者の機能”を鬼に向けて一方的に押し付け、”超身体的能力”によって得た両者のズレを正すことが無いままに殺害という暴力を正当化しています。
さらに作中では私たちは被害者なのだから相手の主張は聞く必要すらないという”抑圧の暴力”を結果として肯定的に描きます。そしてこの抑圧を正当化するさらなる暴力的機能が先ほどから言及している”超身体的能力”なのです。
炭治郎をはじめ、善逸など一部の鬼殺隊員は「生まれつき極端に鼻が効く・異常に耳が良い」などの”超身体的能力”によって他者(鬼を含む)を偏見の枠に押しとどめることを正当化されています。
そしてこれらの暴力の結果が鬼滅の刃特有の心地よいズレや、ストレスのないテンポの良さを生むのは言うまでもありません。
結果的な暴力の正当化
鬼滅の刃では、結果的に読者の心情としてその”暴力”を肯定できるだけであり、物語の過程では単に一方的に暴力が正当化されていると読解できるシーンが数多く存在します。しかもその正当化は高島が走馬灯と追悼と呼び、ぼくが浄化フェイズと呼ぶ、読者には提示される一方で登場人物には提示されない”感情的儀式”によって行われます。
その上、単行本第2巻第8話『兄ちゃん』で示されたように、その”感情的儀式”さえ炭治郎たち鬼殺隊の持つ”超身体的能力”による一方的な理解によって支えられているのです。
繰り返しになりますが、鬼に対する同情すべき過去は読者には具体的に提示される一方、登場人物には”超身体能力”による理解以外には提示されていないのです。
このことは以下に引用した二頁を読むとよくわかります。この場面での炭治郎は自ら切り殺した鬼に対し、『悲しい匂いがするから』という中身の伴わない根拠によって一方的な同情を押し付けているだけなのです。そこに、鬼への真の理解(=実際に起きた出来事に根付く理解)や真の共感(=実際に起きた出来事を受けて鬼が感じたことに対する共感)は存在しないのです。
この巧みな演出は、炭治郎に共感する読者を狡猾な罠へと誘い込みます。
本来であれば読者にしか提示されていない、いわばメタ的情報と呼ぶべきものを”超身体的能力”によって炭治郎も獲得したはずだ、という錯覚の中へ誘い込むのです。第2巻にはこの手の演出がかなり顕著に現れています。
第9話『おかえり』を参照します。
ここで炭治郎は最終戦別について『8人の鬼に会ったがどの鬼もまともに会話ができる状態じゃなかった 問答無用で殺そうとしてくるし』と振り返ります。ですが第6話・第7話・第8話で炭治郎が鬼に対し会話を試みようとするシーンは全く描かれていません。それどころか、上記引用にある鬼に対しては(鬼の挑発があったとはいえ)会話が成立しているにもかかわらず、炭治郎が怒りに任せて自ら斬りかかっているのです。もっと言えば第6話に描かれている鬼と対峙する場面で炭治郎は『いきなり二人…!! やれるだろうか』と、対話を試みることがありません。
まとめ
読者に対し、ズレによる不干渉の心地よさを与える一方で”被害者”という強い立場からのズレが持つ暴力性を後出しで許容させる。
鬼滅の刃ではこのような、後出しジャンケンめいた”言ったもん勝ち”のような構造がいたるところに散見されます。
ぼくはこの構造を、単に暴力を肯定するよりも悪質な作りである、と評価します。
なぜなら暴力をふるった後、被害者のいない場において『こういう事情だったんだから仕方ないんだよ』と自己正当化を行うからです。そこには共存意識や、課題解決に向けた生産的な姿勢が全く無いばかりか、もしかしたら自分が加害者になるかもしれないという類の想像力すら機能しないのです。
あるのは、とにかく『敵認定』できるんだし攻撃するでしょ。なんか後々振り返ってみたら正当な理由があったっぽいし、という”被害者の皮を被った加害者の暴力”だけなのです。そしてそれが読者から結果的に”正当な理由があったっぽいな”と受容されているだけなのです。
最後に
ここまで、鬼滅の刃全体に見られる暴力について自分なりの考えをまとめてきました。ぼくがここで暴力とする演出及び能力については、異なる角度で見ることが出来ればポジティブな読解を可能にするかもしれません。
それは鬼滅の刃が総じて不安定な物語だからです。
ぼくはこの不安定さは成長する主人公をこさえた上で感情に主眼をおいた漫画であれば仕方ないものだと思っています。その前提で上記のような視点を持ち、鬼滅の刃を通読すると、さすがに全肯定するわけにはいかない場面がある、ということなのです。
5000字を超える長い記事となりましたが、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この記事を読むと、ぼくがアンチのように見えるかもしれません。それでもぼくは鬼滅の刃のファンなのだということを記してこの記事を終えようと思います。
おまけ
Twitterに呟きましたが、鬼滅の刃は多様な読み方に耐える歴史的漫画だと感じています。ぼくが挑んでみたい読み方だけでもいくつかあります。例えば、上記で何度も触れた<ズレ>について、ポストモダン社会において大きな物語が喪失した中でそれでも大きな物語めいたもの(=鬼殺隊)に所属し、なおかつ自らの小さな物語を遺棄しないために生じるものだ、という観点から読み解いてみたいと思っています。ほかにもお館様が自らを『父』だと形容するように、鬼殺隊はお館様を一番外側にして柱や育ての親と言う風に疑似家族が小さくなっていくマトリョーシカ的構造として解釈できないか、などたくさんの好奇心があります。
「尊い・・・・・・」や「語彙力ぅ……」など素朴で含みのある言葉があふれる界隈ですが、ぜひ、自分の言葉を文章にしてみませんか? ぼくがほかの人の書いた文章を読むのが好きなのです。
それでは。