とらじろうの箱。

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【鬼滅の刃】鬼はロジックで、鬼殺隊は台詞という話。

 年明けにアニメを見て以降、鬼滅の刃が頭から離れないとらじろうです。

 今回はTwitterで永遠に呟いていることを文章にしてみようと思います。

 基本的な骨格は『鬼はロジック・鬼殺隊は台詞』という読み方です。『鬼は近代・鬼殺隊はポストトゥルースと書いてもいいかもしれません。この読み方をすると最終的に”トランプ大統領が再選する世界では鬼滅の刃はレジェンドになる”という結論に至ります。その話まで記事が続くといいですね。頑張ります。

 ちなみにトランプ大統領2016年11月8日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙において支持を集め、2017年1月20日から大統領。鬼滅の刃の連載は2016年2月15日から始まっていてセンターカラーを飾った第七話「亡霊」の掲載日は2016年3月28日です。アニメ版は2019年4月6日~9月28日(TOKYO MX他)まで放送されていました。

ドナルド・トランプ - Wikipedia

鬼滅の刃|編集アオリ - 鬼滅の刃まとめwiki - アットウィキ

今回の話題は単行本第一巻(第30刷)

 一時期、本屋と言う本屋からその姿を消していた”鬼滅の刃”です。皆さんはお手元に単行本をお持ちでしょうか? ぼくは持ってます。スパイファミリーと五等分の花嫁を買いに行った際、たまたま入荷していたので全巻(2020年1月時点)買いました。

 本題にも関わってきますが、鬼滅の刃は電子版及び単行本、どちらも購入しましょう。ぼくのおすすめは断然、単行本ですがその理由は電子版を読まないとよくわかないと思います。なので、鬼滅の刃は電子版及び単行本、どちらも購入しましょう。

www.shonenjump.com

 今回の記事で一番伝えたいのは、鬼滅の刃は漫画としてあまりにも異質だが、そこが最高に素晴らしいのだということです。

 前置き終わり。

第一話 残酷 について

 主人公である炭治郎は炭で生計を立てています。一話は、炭を売ろうと麓へ降りていた間に鬼と呼ばれる人食い怪物に家族が襲われてしまった所から始まります。そして冨岡義勇という剣士との出会いが描かれ、その後、炭治郎が唯一生きながらえていた家族である妹の禰豆子と旅に出る場面で終わります。

 さて、第一話を読み終わってまず驚くのは著者である吾峠先生(以降、ワニ先生)が絵や世界観に対する執着を持たないように見える点です。

 「いやいや、何をふざけているんですか?」と言う人も多いと思うので説明します。

大正時代という舞台設定

 この記事を読むほどであれば多くの方がご存じだとは思いますが、鬼滅の刃は大正時代(1912年7月30日~1926年12月25日)のお話と言うことになっています。そして主人公である炭治郎の家は代々炭売りを家業にしています。以下、本題ですが――

 まず、大正時代に木を切る際はオノを使いません。

 丸太や太い炭を割る際には”まさかり”と呼ばれるようなオノの類を用いますが、基本的に木を切るときには鋸を使います。また、出来上がった炭を運ぶのに山を下る必要がある様な場合は、漫画の中で炭治郎が使っているような背負籠ではなく、背タ(せた)と呼ばれる農具を用います。背タと言うのは二宮金次郎さんが背負っている例のアレです。以下に参考となる”AgriKnowledge”のURLを貼っておきますので、興味のある方は覗いてみてください。

 脱線しますが二宮金次郎は自筆文書に”金治郎”と署名していたそうです。炭治郎と一文字違いですね。

https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4020002544

https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/4020001538

 続いて、背景にこれでもかと描かれている林です。

 当たり前ですが、炭は木を切って作ります。炭焼きに使われる森は薪炭林と呼ばれます。薪炭林はクヌギやコナラなど多様な広葉樹から構成されているほか、木を切られたことによる萌芽更新が見られるなどの特徴があり、幹の細い木が多いのが一般的です。

 ここで漫画の背景として描かれる木を見てみましょう。

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鬼滅の刃 第一巻 第30刷 第一話「残酷」9頁より引用

 樹種に多様性がないばかりか、豪雪地帯のようですが根曲がりもなくずいぶんと立派に成長しています。

 つまり、この漫画において重要である(≒ワニ先生に意識されている)設定は登場人物にまつわるモノだけであり、あの世界で人々はどのような環境に囲まれていて、どのような具体的生活を送っていたか、などの世界観は結構ズボラなのだと言えるのです。

 文字数の関係から今はこの二点で納めますが、きちんと読むとこの手の矛盾(適当さ)は結構な場面で見受けられます。竹細工が一瞬でおわったりとか、森の中をうろつくのに持ち歩く農具がナタではなくオノだったりとか……。そもそもこの時代の森林は荒れ果てていて、利用できる森はほとんど残っていなかったと考えられています。

日本の森の歴史:2.日本人と森:森学ベーシック|私の森.jp 〜森と暮らしと心をつなぐ〜

 鬼滅の刃に関する考察の一部では”大正時代のお話だから”と言うエクスキューズがよく使われます。ですが、上記のことを踏まえるとそのエクスキューズは悪手だと言わざるを得ないでしょう。多くの場合において鬼滅の刃の世界では時代性やそれに基づいた生活観は重視されていません。(ただし、人物の台詞には例外的な関心が読み取れるのですが、それは後に回します)

 話がそれました。

 世界観に対する言及をしたので、次は絵に関する話に移ります。

一話における木とオノの関係

 また木ですね。木が好きなんです。

 さて、ここでいう絵に対する執着がないというのは、絵による説得力を重視していないということです。それは本来であれば鋸やナタを持たせることによって大正時代の話であることや炭売りを家業にしていることに説得力を出せるにもかかわらず、とりあえずオノを持たせていることからもわかります。

 ですが以下では、より決定的に、ストーリーの流れに乗った中で絵がどう使われているか(使われていないか)を示したいと思います。以下の二頁を見てください。

 

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同じく第一巻 48-49頁 炭治郎の戦闘センスを示す後々にわたって重要となる場面

 ここは炭治郎が人並み外れた戦闘センスと度胸を持っていることを示す、重要なシーンです。この設定は物語の中で炭治郎が窮地を脱するための大事なカギとなっていて、要所要所で言及されます。

 演出としては、歯を食いしばってオノをよけた義勇が、木に突き刺さったそれを呆然と見つめながら解説をすることで意外性や驚きが表現されています。

 続いて見て欲しいのがこちらの四頁。

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同じく第一巻 36-37頁 名台詞『生殺与奪の権を――』につながる前のシーン

 

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同じく第一巻 50-51頁 炭治郎の機転に驚いた直後のシーン

 36-37頁は冨岡義勇屈指の名台詞『生殺与奪の権を他人に握らせるな!!』へつながるシーンです。本来なら炭治郎の行動と義勇の感情の起伏を追いかけて読みたいところですが、今は義勇の後ろにある木に注目してください。

 一コマ目には義勇の真後ろに木が確認できますが、37頁左下の最終コマでは義勇の真後ろにカメラが回り込んでいる構図にも関わらず、木が存在しません。

 「おいおい、こんなの謎でもなんでもなくて義勇と木には距離があって、その間にカメラが回り込んでいるだけでしょう」という反論が聞こえてきそうです。

 ですが、今一度48-49頁に立ち返ってみてください。炭治郎の投げたオノはクルクルと回転しながら義勇のすぐ脇を通り抜けたと同時に背後の木へ突き刺さります。”間一髪でよけられた!”という緊張感が大事な場面です。このシーンを描くためには義勇と木の位置関係が大事なばかりではなく、その距離は極めて近くなければならないでしょう。よけた後、ストンと地面に落ちるまでを想像すると、間が開いて緊張感にゆるみの生じるのが分かると思います。

 そしてこの”木を背負いながら戦っている”という演出は、背後からの奇襲を防ぐ(背中には首や背骨をはじめ弱点が多い)立ち回りを考慮ながら戦っている、という義勇の優れた戦闘力を読者に想起させるものでもあるのです。

 本来であれば48-49頁の説得力をつけるため、義勇の背後が映るコマではこの木は描かれていなければならないはずです。そうでなければこのシーンと前後とで整合性がとれなくなってしまうからです。

 ですが、鬼滅の刃においてはそうなっていない。

 さらに、50-51頁の禰豆子の立ち位置に注目してください。50頁右下のコマ。禰豆子キックへとっさに防御姿勢を取っている義勇の反射力は流石ですが、このコマにおいてはすでにオノの存在そのものが消えています。そしてこれこそが鬼滅の刃の真骨頂であり、既存の漫画と大きく異なる特徴です。

 普通、漫画に限らず、物語はその世界観も含め、前後のつながりに矛盾が無いように気を使って作られます。そうしないと読者が物語に没入できないばかりか、物語のあらすじを追うことさえ難しくなるからです。ところが鬼滅の刃においては主に絵やコマ運び、および世界観において明らかな不整合が認められる。これは初期から現在(2020年5月5日、本誌203話時点)に至るまで変わらず確認できます。注意深く読むと必要な場面になると瞬時に現れ、その前後ではパッと消えているような小物が多くあることに気づくはずです。

 それにもかかわらず、鬼滅の刃は多くの読者を獲得し、多くの共感を呼んでいます。こんな記事を書いているぼくもその内の一人です。鬼滅の刃には明らかに整合性が欠けています。ですが、それにもかかわらず、読者は鬼滅の刃から物語を読み取り、登場人物との共感を得るのです。それでは、鬼滅の刃の持っている、そんな魔法ような魅力は何なのでしょうか?

 それが”台詞”です。

 ここで少し鬼滅の刃そのものからは離れ、鬼滅の刃の初代編集者だった方のインタビューを見てみたいと思います。

news.livedoor.com

 

 

質問者『(ワニ先生の)どんなところに才能を感じたんですか?』

 担当編集『セリフの力が圧倒的ですよね。あんな言語体系、あまり見たことがない。先生のセリフは、借りものじゃないんです。『ジャンプ』では「キャラクターを立てよう」と耳が痛くなるほど指導されます。しかし先生は「そのキャラクターが言っているな」と感じられるセリフを自然と書けていた。そこにいちばん才能を感じました。』

 

 

 初代担当編集者である片山達彦さんは、インタビュアの質問に対して上記のように答えています。そしてぼくもコレに賛同します。『あんな言語体系、あまり見たことがない』と言うのがそのものズバリです。

 鬼滅の刃の台詞を詳細に追っていくと、鬼の台詞は非常にロジカルであるのに対し、鬼殺隊(隠のように剣士でないものは除く)の台詞は非常に主観的であることが分かるはずです。そして、その主観性こそがぼくたち読者へ説得力を与え、共感を呼び起こすのに必要なものだったのです。

 このように書くと「ふざけんな。炭治郎にせよ誰にせよ、彼らの台詞にはきちんと根拠がある!」と反論されます。(このように主張し、200話前後の鬼滅の刃の展開を批判する人をぼくはよく目にします)

 ですが本当にそうでしょうか? ぼくたち読者は、本当に炭治郎や善逸がロジックにあふれ、反論の余地がない様な台詞を叫んだ時、そこへ共感するのでしょうか? 試しに先ほども触れた冨岡義勇の名台詞『生殺与奪の権を他人に握らせるな!!』を見てみましょう。ここで炭治郎は『やめてくれ!!』と叫んだ後、すがるようにして義勇に土下座します(36-37頁)。この時の炭治郎の台詞はこうです。

 『やめてください・・・・・・ どうか妹を殺さないでください・・・・・・ お願いします・・・  お願いします・・・・・・』

 炭治郎は義勇に対し、妹を殺すなと言うものの、自分の命については何の言及もしていません。

 それでは義勇の言う『生殺与奪の権』の対象は誰だったのでしょうか? 

 今まで見てきたことから、それが炭治郎の権利でないことは明らかです。

 確認のために一度、生殺与奪の権利を握られているのが炭治郎であると仮定してみましょう。すると義勇の台詞は単に空回りしてしまいます。なぜなら炭治郎は自分の生き死にについて一言も触れていないからです。このままでは義勇は、一方的に勘違いをして切れてしまった恥ずかしい奴との誹りを免れません。

 ですが、ここでも反論は予想されます。「炭治郎は土下座している。それは頭を垂れ、首を差し出す行為である」と。確かに義勇がそう受け取った可能性はあるかもしれません。ですが、このとき炭治郎は腰にオノという凶器を備えているばかりか、直前には『俺が妹を何とかするから今は見逃せ』というロジックで義勇に迫っているのです。土下座=命を差し出している、と読み解くにはもう一押しが必要となるでしょう。

 この場面、義勇と炭治郎のほかにいるのは禰豆子です。それでは、義勇の言う生殺与奪の権を握られていたのは禰豆子なのでしょうか? 今更書くまでもありませんが、義勇につかまった禰豆子は常に必死な抵抗を見せています。

 義勇に対し、抵抗している奴を捕まえて『生殺与奪の権を握らせている』と言ってしまっているのではあまりにも支離滅裂です。また、炭治郎に対し『妹の生殺与奪の権を他人に握らせるな』と言っているのであれば同じく支離滅裂であると結論付けられるでしょう。なぜなら、炭治郎が今にも殺されそうになっている禰豆子を助けることは、炭治郎が禰豆子の生殺与奪の権利を握ることに他ならないからです。

 こうしてみると分かりますが、あのように力関係(権力関係)が異常に明確な場面では『生殺与奪の権握らせるな』と語ることそのものが不可能なのです。

 まとめ

 さて、鬼滅の刃においては絵や世界観が特に重視されておらず、台詞にもおかしな点の多いことが以上のことから分かったと思います。しかし、それでもぼくたちが義勇た炭治郎の台詞にアツい何かを覚えるのは紛れもない事実なのです。

 何か伝えたいこと(描きたいこと)がある時、鬼滅の刃においては圧倒的に文字の方へ比率が割かれています。これは漫画において新鮮な驚きをもって迎え入れられるべき事実だと思います。ネームが多いことで有名な漫画のうちの一つに”銀魂”がありますが、銀魂においても漫画としての見せ場では絵が文字以上に重要な役割を担っていることは疑いようがないはずです。

 ”漫画は総合芸術である”とよく言われます。そして鬼滅の刃はこれほど人々に受け入れられているにもかかわらず、漫画としては異常なまでに絵の担う比率が低く、文字の果たす役割が大きいのです。さらに発明的なのが、鬼滅の刃における”台詞(文字)”は”絵”以上に整合性がないということです。

 そしてこの特徴こそが”漫画は好きだったが、アニメ版は受け入れられなかった”と言う層を生むことになります。実を言うと、ぼくもこの層に属しました。アニメ版はあまりにも絵のクオリティが高く、絵としての物語が成立しすぎてしまうために漫画版で感じられる絵:文字の黄金比が崩れてしまっているのです。そのために台詞の不整合があらわになり、炭治郎の台詞全てに気持ち悪さを感じてしまいます。このことは漫画とアニメの本質的な違いを示しているようにも感じます。(そしてこの点について正直に書くとワニ先生の描くギャグが少し下手くそだというのも大きいはずです。)

 ここまで予想以上に長々とした文章になってしまいました。しかも、一巻について話すと言ったのに第一話にしか触れていません。まだまだ書きたいことはあるのですが、うまく考えがまとまっておらず、文章として公開するレベルには至っていません。特に最後に太字にした部分は鬼滅の刃の核心に触れる考え方のはずですが、まだ上手く言語化できるレベルに至っていないのです。

 周りに鬼滅の刃のことをこのような視点で話せる友人が少ないことも一因だと思います。よろしければ、この記事を読んで思ったことをコメントしてくれればと思います。

 それでは最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 続きはまた、まとまり次第・・・・・・。

 

 

 

 

◇以下、漠然とした鬼滅の刃と世界の関係について考えていること◇

 台詞ついてぼくは、あまりに脆く、形と言う形もわかっていない結論を持っています。その結論とは、鬼滅の刃では、人々が普段、説明せずとも伝わってほしいと思っていることが最適なタイミングで理解される”と言うものです。そしてその理解を示す装置こそが台詞なのです。ぼくたちはこの理解に対し、エビデンスを求めていません。むしろぼくたちは日常においてエビデンスに疲れている。求めているのは、本当に理解してくれたんだと思わされる勢いと身勝手さだけなのです。なんでわかったのか? そんな理由はいらない。ただ分かったと言い切ってくれる勢いを求めているのではないでしょうか?

 鬼たちは非常に明快で筋の通った台詞を話し、ヒトを食べます。一方で鬼殺隊は今まで見てきたような例も含め、非常に身勝手で主観的な台詞を話します。ことに炭治郎に着目すると、彼は積極的に誤解を好みます。他者と会話をしているようなシーンに見えてもほとんどの場合は彼が一方的に誤解をして終わります。そしてそれを見た少なくない読者が炭治郎に”やさしさ”や”慈しみ”を感じているのです。

 ポストトゥルースと呼ばれる世界について、千葉雅也は『意味がない無意味』で『ポストトゥルースとは、ひとつの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実と事実の争いが展開される状況であ』り、『さらに言えば、それは別の世界同士の争いに他ならない。』と言っています。これはまさしく鬼滅の刃そのものではないでしょうか?

 炭治郎は”浄化フェイズ”とぼくが呼んでいるシーンにおいて、死にかけている――それもそのうちのほとんどは自分で手をかけている――鬼の体(多くの場合は手)に触れ、『悲しみの匂いがする』と一方的な解釈を開示します。この解釈をするまでの間に一切の対話はありません。あるのは『お前は人を殺す鬼だから俺が殺す』と言う炭治郎と、その時々に応じて多様な理由で炭治郎に対峙する鬼との生死をかけた戦闘だけなのです。このように、炭治郎が鬼と戦う動機は一つであるのに対し、鬼の側の動機はさまざまであるのも鬼滅の刃の特徴でしょう。従来の作品であればこの構図は全く逆であるはずです。これらがもっとも端的に現れているのは第11巻に収録されている96・97話の『何度生まれ変わっても』でしょう。そしてそのシーンを見た多くの読者が涙を誘われるのです。

 果たして、鬼滅の刃を読むときのぼくたちはどこに視線を重ねているのでしょうか。日本はバブルを終え、東日本大震災を経験し、政治への信頼を失いました。近代社会の限界を目の当たりにしたぼくたちは、一方的な誤解や、一方的な理解を求めているのではないか? もっと言えば鬼滅の刃の読者の多くは『一方的で決めつけに過ぎない理解』を求めているのではないかと思わされるのです。鬼は炭治郎のあまりにも主観的な主張を受け、自己解決に至り、成仏します。ぼくたち読者は、一方的で決めつけに過ぎない理解こそが無限の中に有限性を取り戻すものだと直感して鬼滅の刃を読むのではないか?

 ところが無限城編と呼ばれるパートに入ると物語の構図ががらりと変わります。炭治郎をはじめとする鬼殺隊の面々はあまりにも強大な鬼を前にして『一方的で決めつけに過ぎない理解』さえ示すことが叶わなくなるのです。すると鬼は戦いの中で勝手に自己完結し、成仏していきます。鬼が炭治郎に成り代わって『一方的で決めつけに過ぎない理解』を覚え始めるのです。こうなると、炭治郎たちの出番はありません。単に意味不明なことを言ってくる奴でしかなくなるからです。ぼくのまわりで、無限城編からつまらなくなったという人が一定数います。