とらじろうの箱。

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【FE風花雪月】レビューがどうしても引っ掛かったのでネタバレなしで書きたいこと書きました。

 一部のレビューにどうしても違和感がぬぐえなかったのでコレを書いています。同じく、違和感を抱いている人に届き、何か反応があればいいなぁと思っています。

 

 

 結論から書くと、一部のレビューはあまりにも風花雪月を単純化し過ぎているという違和感がずっとありました。

 例えば、ゲーム内で描かれる戦争に関して「戦争が起きてしまった事実がただただ悲しく、かつての平和な日常に戻ることが出来ない虚しさを味わう事が出来ます!」というレビューがありました。これを読んだとき、『確かに共感できるかもしれないが、それはこのゲームを表していない』という思いがぬぐえませんでした。

 キャラクターたちは風花雪月の世界で人生を歩み、考え、葛藤し、ある時には苦しみを感じながらも自らの道を選びます。そしてプレイヤーはそんなキャラクターたちと交流し、彼ら彼女らの生を感じたうえで戦争に直面します。

 よしんば「かつての平和な日常」があったとしても、それは『戻りたい』と一口に言ってしまって良いものだ、と私は感じませんでした。また、戦争が起きたことに関してもシンプルに「悲しい」とは考えられませんでした。

 風花雪月では当たり前に複雑さがあり、その中に日常があります。複雑さと日常が共存しています。そして、その日常を過ごしているキャラクターが持つ、厚みのある考えに基づいて戦争が起こるのです。

 これはプレイヤーが生きているリアルな世界でも同様だと思います。

 前述のレビューはこの複雑さを軽視しており、あまりにも明瞭すぎるために強い違和感がありました。

 

 

 

 以下に、私が風花雪月の戦争をどう感じたか書いていこうと思います。

 

 

 

 風花雪月は第一部と第二部によって構成されています。第一部では担当学級に所属する生徒たちとの交流がメインです。そんな生活から少しずつ世界の無理がこぼれだすような形で第二部へと話が続きます。任天堂公式サイトの言葉を借りると<士官学校の教師として担任する学級を選び、生徒たちを育て、導いていく第一部。そして士官学校での日々から五年後、三国が相争う戦争を、三国それぞれの立場で描く第二部>があるという構成です。

*上記<>内、

www.nintendo.co.jp

より引用(2019/08/26アクセス)

 

 物語の舞台となる『フォドラ』は「アドラステア帝国」「ファーガス神聖王国」「レスター諸侯同盟」の三大国により統治されています。多くの時間を過ごす「ガルグ=マク大修道院」は三大国の中央に位置しており、フォドラ全土で広く信仰されている「セイロス教」という宗教の総本山になります。マイユニはそんな「ガルグ=マク大修道院」の内部に併設された士官学校に籍を置きます。

 

 第一部の冒頭では「黒鷲の学級(アドラーラッセ)」「青獅子の学級(ルーヴェンラッセ)」「金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)」の三学級からひとつを選びますが、それぞれの学級は上述した三大国の出身者別に生徒が構成されています。また、この士官学校に入学してくる子供たちは各国で将来を有望視されています。この様な事情から<さながらフォドラの縮図のような環境>にあるのが士官学校だそうです。

 

 第二部では担当した学級に関わる大国へ肩入れしている中で戦争を体験します。これは三国が相争う戦争です。必然的に、担当学級の生徒に比べて交流が薄いとはいえ、その『人となり』を知った生徒たちが敵として立ちはだかるのです。こればかりはプレイしてみないとわからないのですが、第一部を終えた後では生徒たちへの思い入れはかなりのものになっています。プレイヤーはその思い入れを前提に生徒たちを互いに戦わせなければなりません。

 

 確かに「なんてことをしてくれたんだ!」と言いたくなる気持ちもわかります。

 

 ですが、ここで争い合う生徒たちも単に「プレイヤーがそうしたから」という理由で命をかけるわけではありません。各々に各々なりの理由があって、かつて同じ釜の飯を食らった人たちと殺し合いをするのです。

 

 第二部の戦争へ至る経緯は、その全貌とはいかないまでも、どのルートであれ、ある程度の輪郭が分かるように説明されています。そして、それはとても一言で言い表せるようなものではありませんでした。

 

 ゲーム全体を通して脱力感や無力感を得る場面はあるかもしれませんが、それが前面に出てくるようなゲームでは決してありません。脱力するにはあまりにもキャラクターたちが真剣だし、無力感に浸るにはあまりにもキャラクターたちが愛おしいのです。

 

 『どうしようもないのかもしれないけれど、どうにかしたい』

 私はそう感じながら風花雪月を進めていました。

 『誰のことも否定できないし、否定したら嘘になる』

 そういう気持ちです。

 

 「新作FEはお茶会をするゲーム」という冗談がその一端を示すように、風花雪月はキャラクターたちとの交流が異常なまでに多角的です。支援会話はもちろんのこと。探索時の日常的な会話やお茶会に、外伝。そして拾った落とし物を届けるなど。プレイヤーは、様々な行動を通してキャラクターと向き合うことになります。

 

 重厚な世界観の中、命あるひとつの個体として、キャラクターたちはどの子も非常に人間味があり、複雑です。プレイヤーは丁寧な作り込みに支えられ、一人一人の人生を抵抗なく受け止めることができます。

 

 そして、戦争を引き起こすキャラクターたちに関してもこれは同様なのです。彼ら彼女らはそれぞれの考えや思いがあり、各々の葛藤を踏まえたうえで戦争の道を選びます。私は、これらをまるで無かったかのようにしてしまうシンプル過ぎる言葉で風花雪月をレビューすることはできないと感じました。

 

 加えて、風花雪月はルート分岐のあるゲームです。大きなものだけでも4つの分岐があります。各ルートを通してプレイヤーは、戦争を起こしたキャラクター、戦争に抗うキャラクター(もっと言えば戦争に巻き込まれたモブキャラクターたち)それぞれの傍に立ち、それぞれの思いを聞いて道を進みます。

 

 ゲーム中に現れる結果は、一人一人が悩み、一人一人が苦しむ中で見出した答えそのものです。戦争になってしまうことを嘆き、過去を渇望する際には、その行為が彼ら彼女らの否定につながることを無視してはいけません。ましてや、プレイヤーは自らの意思でゲームを進めることによってその嘆かわしい戦争へと向かっていくのです。製作陣を茶化す言葉でつらさを紛らわす際、自らの責任を転嫁しすぎないように、意識して気を付けなければならないと思います。

 

終わり。