とらじろうの箱。

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【放談】『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を25歳が観た話。【NO.4】

はじめに

 本記事は、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下、シンエヴァ)についての放談記事です。『THE END OF EVANGELION』(以下、EOE)との流れの中でシンエヴァについて思ったことを書いていきます。

 したがって、以降にはEOE及びシンエヴァに関するネタバレが含まれます。とはいえ、一般的な意味でのネタバレさほどありません。シンエヴァを見る前に読んでも何が何だか分からないものではあるはずです。

 この記事はシンエヴァの評価が固まり始める前に、自分はどのような思いを抱いていたのかの議事録でもあります。

EOEに感じていたこと

 ぼくは年齢的にEOE放映当時の熱量を知りません。TV版及び旧劇場版については全て後追いでした。かろうじてリアルタイムに間に合ったのが、貞本版エヴァ及び新劇場版です。それでも個人的にEOEを見直した際には「傑作だ」という他有りませんでした。

 その上で、いわゆるEOEの当事者と呼び得る30代~40代の方たち(残念ながらほとんどすべて男性です)と話していると違和感を持つことがありました。その違和感を示すために、まずはぼくがEOEをどう評価していたかを書く必要がありますので、少しお付き合いください。

 ぼくはEOEを『90年代当時の”男性”と真正面から向き合った物語』だと考えています。唐突ですが、『ジェンダー論をつかむ(2013年、有斐閣、著:千田有紀・中西祐子・青山薫)』の中に、以下のような段落があります。

 「世帯」を中心としたさまざまな制度は、1990年代以降、急速に崩れはじめました。配偶者特別控除の上乗せ分が廃止になり、多くの企業で扶養手当がカットされ、離婚後は第3号年金者も夫の厚生年金を分割して受け取ることができるようになりました。これはある意味で、いままでのジェンダー平等の観点から求められてきた「世帯」単位のあり方を脱して、「個人」単位への移行が実現しているということもできるかもしれませんん。

(第3章 労働とジェンダー p76)

 「世帯」と「家族」は厳密にいうと異なる概念です。ですが、当時を振り返れば多くの場合、世帯には父と母と子がいて、家族と非常に近い形態をしていたと考えていいでしょう。(もちろん、このように考えること自体がシングルマザーやシングルファザー家庭、あるいはその他多くのあり方に対する暴力であることは否定できません。)

 つまり、「世帯」から「個人」への移行とは、父=男性を中心とした家族が崩れ始め、個人が成立し始めたのだ、ということです。家族の中で、ある種特権的な立ち位置を手に入れていた男性が、不安定にならざるを得なかったのが、90年代だったのです。

 EOEはその時代に生きた”男性”の感覚を非常に優れて描写していた作品でした。

 従ってEOEの物語では、家族という家族が歪なものとして捉えられています。ゲンドウ(父)とシンジ(子)は常にディスコミュニケーションを抱えています。リツコやミサト(大人の女性)は家庭を持たず、男性との関係に戸惑いを覚える姿が描かれています。そしてアスカは、少女でありながらも個人として、何よりも女性としての自分に強く自覚的な存在として描かれることになりました。そんな中で、クローンであるがゆえに個人としての出自を持たず、極めて空虚なキャラクターとして扱われたのが綾波レイでした。

 これは庵野秀明という一人の男性作家が、”男性”としての自分を深く深く観察しながら自分を描こうとした、極めて私小説的なアニメーションだからこそ生まれたものなのではないか。これが、ぼくのEOE認識です。

 もっといえば、当時30代であった男性が自身の男性性を真剣に描写したため、後追い的に、大人の女性をある種フェミニスト的に描くことができた。加えて少女であるアスカについても、後追い的にひどく肉感を持った他者として描くことができた、ということです。

 そして主人公であるシンジは「キャラクター」としての綾波レイを、聖なる母=ユイと重ね合わせ、その母に背を押されるような形で、もっとも近い他者(≒女性)であるアスカと関係を築くことを選びました。人類補完計画を否定し、ATフィールドのある世界で生きるとはこういうことです。けれども、この上で、EOEではシンジとアスカの関係性にポジティブな決着点を見出すことができませんでした。

 シンジは、EOE冒頭の射精シーンに見られるように、自身の男性性に立脚したままコミュニケーションをとり続けます。つまり当時の男性は、「個人」として立ち現れ始めた女性(あるいは他者)に対し、「個人」として接することができず、女性と男性という枠組みの中で接するしかなかったのです。 

 あるいは女性が「個人」として立ち現れ特権的な男性が消滅し、「個人」として振る舞うしかなかった男性は戸惑っていた。その結果が「男性/女性」の枠にとらわれたコミュニケーションだったと言えるのかもしれません(これはあまりにも男性に肩入れした見方なのかもしれませんが)

 その限界がEOEの最後で、女性であるアスカから男性であるシンジに放たれる『気持ち悪い』として現れています。

 もしかすると、当時の多くの男性はこのシンジとアスカの関係を限界とは捉えず、そこに(あるいはその延長線上に)個人としての可能性を見出してしまったのではないか。その結果ゼロ年代には「セカイ系」が発展し、「キミとボク」の世界にとらわれ、出口を見失っていたのではないか。コレがこの章の冒頭に記した、違和感の正体ですです。ぼくの知る30代や40代の彼らは、EOEに衝撃を受けた結果、自縄自縛の状態に追い込まれているようでした。

 もちろん、ここでいう男性には、ゼロ年代のアニメーション表現を消費してきたぼくも含まれているかもしれません。

シンエヴァが行った更新

 シンエヴァでは、EOEの限界を真正面から受け止めています。

 自分と他者との関係性を、男性性や女性性に固執しすぎる必要なく、個人と個人の関係としてとらえ直しました。EOEで示した他者への恐怖を引き継ぎながら、他者との関係をポジティブに描き切ったのです。

 初恋は初恋として終わり、次の恋があります。エヴァに当てはめて言えば、シンジとアスカの関係は初恋だったのかもしれません。ですが時間と共に初恋は、様々な学習や経験を通して意味が変わり得るのです。

 ぼくたちは、EOEにおいて、アスカとシンジの関係を変化可能なものとして引き受ける選択肢を見出すことができませんでした。それほどにEOEは衝撃的で強度のある体験だったのです。けれども、庵野秀明は25年間EOEについて向き合い続け、シンエヴァのような終着点を描き切ったのです。

 少なくとも、ぼくの目にはそう映りました。

 シンエヴァでは、男女関係以外でも多くの意味が、書き換え可能なものとして示されています。それはシンジの自立、綾波レイの救済、アスカの成長を支えます。彼ら彼女らは、家族から離れた共同体の中に身を浸すことで意味の書き換え可能性に晒されました。この共同体は自身の行動、すなわちニアサードインパクトの結果として生まれた、ネガティブでもありポジティブでもある共同体です。彼ら彼女らはそこで他者と触れ合い、対話を繰り返しました。

 自分は可変であるし、他者も可変である。言い換えれば、たとえ今この瞬間一人の男性と一人の女性が恋愛のような形で、どうしようもなく怯えながらコミュニケーションをとっていたとしても、その恋愛は終わり得る。そしてさらには、終わった恋愛であっても意味の書き換え可能性には晒され続けるのです。それを恐れ、個人に引きこもってしまえばある一つの意味が強固に固定され続けてしまいます。その姿こそが、エヴァンゲリオンシリーズ全体を通して描かれていた、臆病なシンジだったのです。

シンエヴァが示したアニメへの向き合い方

 ぼくたち人間は、アニメーションあるいはキャラクターに対して感情を動かします。恋さえすることができます。そしてその体験は決定的でありながらも、不変ではなく、嘘偽りでもありません。時間の流れに晒されることで、振り返った時には新しく意味を書き換えたり、取り出したりできる。そのような相互的なものなのです。

 このようなことが、アニメーション(虚構)と真摯に向き合った結果として描かれていることこそ、シンエヴァの真骨頂なのではないでしょうか。

 思えば、TVシリーズから始まったエヴァンゲリオンが『TV版、旧劇場版、新劇場版』と3度の終わりを見せたのも、書き換え可能性に晒されている結果でした。

 シンエヴァで示された書き換えは、決して無責任なものではありません。インチキのタネ明かしのように『実はこうだったのだ!』という唐突などんでん返しは有りません。視聴者を納得させるキャラクターの実存や物語の整合性を保ちながら、意味を書き換えていくのです。綾波の変化も、アスカの変化も、シンジの変化も、そのほかの変化も全て物語の中に回収されながら訪れます。

 更には『アニメーションはアニメーションに過ぎないのだ』というメタ視点の誘導さえ、物語上の必要に呼応する形で取り入れられました。

 それはユイという「キャラクター」を求め続けるゲンドウと、個人を選んだシンジとの対立構造からも読み取れるでしょう。ある種理想の女性ともいえるユイを選んだゲンドウとは異なり、シンジは匂いという、アニメーションの枠組みから外れたという意味で外部にあるキャラクターと手を取り合う選択をします。

 人類補完計画の否定、つまり、ゲンドウの否定はEOEと同様のテーマです。けれどもシンエヴァでは、決してゲンドウ(キャラクターへの執着的な愛)を一方的に拒絶することなくその決着を付けました。

 シンエヴァのラストでは、キャラクターと手を取り合あって現実に走り出します。あるとすれば、それは『社会に適応しながら、オタクのまま生きる』というメッセージであり、『オタクよ、現実に帰れ』というEOEの更に先にあるメッセージなのではないでしょうか。

おわりに

  シンエヴァはEOEと異なることをやっているのではなく、EOEと25年間向き合った結果生まれてきたアニメーションです。そう言い切っても構わないと思える作品でした。

 極めて私小説的な作品でありながらも、マスターベーションにならず、非常に開かれています。それは分かりやすさもそうですし、アクションシーンの気持ちよさもそうなのだと思います。

 このように衝撃的な作品を、25歳という年齢で見ることができた幸運に感謝しています。

 本記事の基本的な考えは、ぼく個人のモノですが、記事中に出てくる言葉の使い方などは主に以下の配信中に構想を練りました。非常に長い動画ですが、シンエヴァを考えるにあたって、視聴に損は有りません。シンエヴァから何かを受け取った方には、是非視聴をお勧めいたします。

shirasu.io

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2021/03/10追記。
 誰もやってないからやらなきゃなぁと思っていたらやっている人が居ました。

 ありがたい。お話聞いてみたいですね。

ytakahashi0505.hatenablog.com