【ひらめき☆マンガ教室】第1回講義『ひらめき1』 感想編【第4期】
第1回講義を終えて
はじめに
2020/08/05日にひらめき☆マンガ教室(以下、ひらマン)の第1回講義『ひらめき1-イントロダクション-』が行われました。
この記事ではこの講義の内容を自分なりにまとめていきます。
講義で教わった事はできる限り抽出した記事にしますが、もちろん、この記事を読んだからといって「ひらマン」を受講するのと同じではないし、この記事をきちんと読んでいただけるとむしろ「ひらマン」は受講してなんぼだ、ということが分かるはずです。
以下、本題。
イントロダクション
主任講師である、さやわかさんの自己紹介から始まりました。
さやわかさんがどのような立場の人間か。マンガと今までどのようなかかわりを持ってきた人なのか。「ひらマン」の前駆体となった「ひらめき☆マンガ学校」を開講するに至った経緯などが語られました。
ここでは既存の「マンガ学校」「マンガ教室」がどのようなことを教えていて、それはマンガのどのような構成要素にかかわりがあるのかということ。そして「ひらマン」が既存のそれらとはどういう意味で異なるのかを説明してくれました。
ひらマンとは
『マンガ家』という概念は、現実的にはすごい多様性を持つにもかかわらず現状、一般的にはそのような認識があまり明確にはなされていません。
そのために既存のマンガ学校では現実に比べて狭い範囲の『マンガ家』にしかアプローチが出来ていないとのことでした。そこで「ひらマン」は現実に見合った範囲の『マンガ家』にアプローチできる教室を目指しているということになります。
具体的には下に羅列する『マンガを構成する4つの要素』の内、3と4の領域をひどく自覚的にカバーしているのが「ひらマン」なのです。
- 絵と物語の作り方
- マンガの描き方
- 良いマンガの描き方
- マンガ家になる!
そしてこの4の要素を満たすには、生徒自らが『自身の活動方針』を見つけることが不可欠であり、「ひらマン」はそこへ積極的にアプローチを仕掛けていくのだということでした。
この『自身の活動方針』を見つける、というのはひどく具体的な話です。
自分は『マンガ家』としてどのような道を歩みたいのか。自分はマンガをどこの誰に届けたいのか。自分はマンガをどのような志で描いていきたいのか。など、マンガを表現の一種だと強く自覚することが大前提になる行為です。
ただし、ここでいう表現の一種とは、必ずしも芸術領域のことではありません。
「大金持ちになりたい」という動機でマンガを描くにせよ、そのためにはマンガを読んでくれる読者が必要だし、読まれるマンガを発表する場が必要だということです。そして同時に、大金持ちになるためのマンガを描くには消費者の読書体験をある程度コントロールできないといけないということです。
そのためには、『自分が今どのような場で、何のために何をしているのか』というメタ的な思考が必要不可欠になります。
さやわかさんが自身の生放送や公開説明会で『ひらマンはある種、自己啓発的』とおっしゃっているのはこの部分だと思います。ただし、「ひらマン」では一般の自己啓発のように「○○さえすれば結果的にメタ認知を代替できてしまう方法論」を積極的には採用しないという姿勢があると感じました。だから『自己啓発的』という言葉で、自己啓発そのものとは区別しているのだと思います。
なぜ『継続』が視野に入るのか
「ひらマン」は受講生が自分で活動方針を決めること/決めた活動方針へ進むことをサポートすると公言しています。そして今日の講義では『継続』が一つのキーワードでした。プロで行くにしろアマチュアで行くにしろ、マンガを描くという行為を継続することが大切なんだと言っています。
なぜ『継続』がキーワードになるのかは難しいところだと思います。
*以下に書くことはぼくの思考が強く反映されているので、ややもすると「ひらマン」のそれとはズレがあるかもしれませんので、それを念頭に置いてお読みいただければ幸いです。というのも『自分の描きたいマンガと描けるマンガは別物だけど、それでもマンガを描き続けること』に対しての答えを、以下に示す考えでは示すことが出来ていないからです。以下の思考には明確にダメなところがあります。それでもぼくの考えをここに残しておくことには意味があると感じたので、ここに書くことにしました。*
ぼくは「マンガは表現であるのだから、表現を表現として成り立たせる以上、継続するほかないのだ」と理解しています。継続しない限り、表現は表現として成り立たないのです。
そして『マンガは表現なのだ』という前提に立つ限り、その持続には方法論的なメタ認知の他に積極的なメタ認知が欠かせないはずです。マンガを描こうとしたら結果的にどうしてもメタ認知が必要になるのです。
つまりマンガの読み手は日々変化し得るし、自己の表現技法は日々変化し得るということです。
あるいは、表現である以上送り手と受け取り手が存在するしかないし、そういう消費構造を前提としているのがマンガなのだから、マンガを描くのであれば受け取り手の側まで視野に入れざるを得ないのです。
メタ認知により、「自分の表現しているもの=マンガ」ってこういうものだよねと捉えることで結果的にそれをどこへ向けて発信するべきか分かることもあると思います。
『自己の活動方針』が上手く決められなかったり、どういうことを聞かれているのか分からなかったりする方は、まずは「今の自分ってマンガで何をやっているんだろう?」と一つ手前の事柄に立ち返ってみればヒントが得られるかもしれません。
そしてその助けをしてくれているのがネームアピールだと思います。
なのでぼくは、前回の記事でも書きましたが、ネームアピールは書いた方が良いと思っています。
受講生の自己紹介を受けて
『「ひらマン」では具体的にマンガをどこの誰に届けるつもりなのかを考えなきゃいけないんだ』というのは多くの方が意識している一方で、その前提に『マンガは表現である』という思考があることを意識している人が少ないのかなぁと感じました。
少なくともぼくは『マンガは表現である』という前提を受け入れることで、「ひらマン」がしつこいほどに『マンガをどうしたいのか』『マンガで何がしたいのか』を尋ねることに納得がいきました。
表現である以上、それを伝える相手は必ず存在します。
何を分かり切ったことを言っとるんじゃこやつは、という人もいるかもしれませんが、先生方がいう『何がしたいの?』が良く分からない人は『何を表現したかったの?』『何を伝えたかったの?』『読者がどんな風に読む想定をしていたの?』と読み替えることで開ける道があるんじゃないかなぁと思います。
おわりに
講義の中でも繰り返されましたが、マンガは多様性に満ち溢れた世界です。
表現が多様である限り当然の話なのかもしれませんが、それにしてもマンガは膨大な多様性を抱えています。おそらく文字と絵の両方でアプローチでき、そこにコマ割りや演出などの立体的な表現技法が重なっているために、表現としての射程が大きいのだと思います。
きっと自分のやりたい表現=マンガを受け止めてくれる媒体がどこかにあります。
そしてそれを探す手伝いをしてくれるのが「ひらマン」で、さらにはそのマンガをどうやってより良いものにするのか親身になって考えてくれるのが「ひらマン」だと思います。
マンガが表現である以上、技術論だけをガチガチに固めても仕方がないのです。
マンガを描くのに対人コミュニケーションが大切になるのはどこか矛盾があるように聞こえますが、受講生の皆さんはぜひとも先生方へ積極的にアプローチするのが良いと思いました。(これをしていただけると、脇で聞き耳を立てているぼくもとても勉強になるので一石二鳥です。ありがたい。)
さて、講義をまとめるようなことは初めてなのであまり役立つような記事になっていない自覚があります。第一に「ひらマン」の外へ開かれた記事になっていませんよね。これは今後の課題です。
それでは、また次の記事でお会いしましょう。