とらじろうの箱。

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【放談】『魔女見習いをさがして』感想~ヒトヨタケを食べてしまった大宮竜一~【NO.2】

*この記事にはネタバレ要素があります。気になる方はお気を付けください*

はじめに

 ぼちぼち公開館もなくなろうかという昨今、ようやく『魔女見習いをさがして』を観に行った。結論から言えば、素晴らしく出来の良い映画だったので今からでも是非映画館へ足を運ぶことをお勧めしたい。

 『魔女見習いをさがして』は、おジャ魔女どれみ20周年記念作品である。おジャ魔女どれみの歴史は日曜朝女児アニメ枠(とあえて書くが)の歴史と言っても過言ではない。20年もの間、途切れることなく(主に)子供たちへ日曜朝のコンテンツを提供し続けてきた東映アニメーションの総括として、これ以上のものは恐らく存在しないだろう。

 そう言いたくなるほどに、自覚的なアニメ映画だった。

 アニメーションとは何か。アニメを視聴するとはどういうことなのか。キャラクターとは何か。玩具販促アニメとしての責任とは何か。多感な時期と言われる子供たちに向けたコンテンツを作るとはどういうことなのか。そのすべてに正対して作られた、とても真摯な映画だったように思う。

 それは公式ホームページに掲載されている「特別公開~本編冒頭6分アヴァン映像~」を見るだけでも伝わるはずだ。ちなみに、ぼくは何の前情報もなく劇場へ行き、冒頭1分で泣いた。

 見てない人はとにもかくにも視聴してほしい。

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 映画は、おジャ魔女どれみシリーズのメインキャラクターたちが、綿毛のタンポポによって左右に区切られたスクリーンの右側から歩いてくるシーンで始まる。シリーズの主人公である「春風どれみ」による『わたしはやっぱ、ステーキ屋さんかな』という台詞を受け、『(大人になることは)まだまだずぅーっと先の話よね』と「瀬川おんぷ」が言う。すると風が吹き、カメラが動き、どれみが『ねぇ、みんなは大人になったら何になりたいの』と『魔女見習いをさがして』の主人公三人(つまりは、劇場にいる観客)に語りかけるのである。

 映像を見ていない人に向けてクドクドと説明をしているが、とにかく見てもらえれば話が早い。

 あえて書くまでもないことだが、このタンポポは現実とアニメーションの間に挟まる画面(映画でいえばスクリーン)の暗喩でもある。この自覚的な演出を見せられたぼくは泣くしかなかった。「あぁ。分かったよ。そういう覚悟を持ってみろってことだね」と。マスクをしていると涙をぬぐいにくいことに初めて気が付いた。

「大人」たちに向けたアニメ映画

 映画では、かつておジャ魔女どれみシリーズを支えとしてきた子供たちも、いつかは大人になるのだということを執拗に描いていく。20周年という数字そのものが成人を連想させるが、わざわざ19歳で登場させたキャラクターに劇中で誕生日を迎えさせ、20歳にしてから物事を動かし始める手つきなどは、ひどく意図的なものだろう。また、作中では事あるごとに飲酒シーンが挟み込まれる。これも大人としての振る舞いの一つである。

 その上で、この映画は「接触」が大きなテーマになっていた。

 スマートフォン(言うまでもなくタッチパネルが搭載されている)を扱うシーンや、互いに手を握り合うシーンが印象的に作り込まれている。多少のネタバレを挟んでしまうが、途中、仲直りをする際に『やっぱり会いに行かなくちゃ』と強い物理的な接触を求めるシーンなども描かれる。

 中でも、特に印象に残るのはSNSが取り上げられたシーンだった。というのもこのシーン、ややもすると「要らないのでは?」と違和感を持つシーンなのである。

 中盤にささしかかると主人公三人組は、2度目の聖地巡礼(これ自体が、アニメキャラクターに会いに行く/アニメキャラクターと自分の行動を重ねるという、虚構的接触を求めた行為である)の途中で男子大学生――大宮竜一と出会う。

 大宮は主人公の一人「長瀬ソラ」と良い感じの雰囲気になるのだが、その途中で「大宮は過去にSNSで炎上していた」ということが発覚するのだ。

 作中で写真を撮るシーンなどはあったが、特に前振りらしい前振りもなくこのシーンが差し込まれる。少々唐突に思えるものだった。ドラマ作りとして山の前に谷を配置するのはわかるが、もう少しスムーズなやり方があるのではないかと感じる人が居ても、不思議はない。

 けれどもこの映画は「接触」がカギになっている点や、「画面≒スクリーン」にひどく自覚的な作りをしていることなどを踏まえると、やはり、必要不可欠なシーンだったのではないかと思えて来る。さらに言えば、大宮に関してはある種謎に「アルコールに弱い」という設定が提示されるのだが、この設定も見逃すことはできない。

 飲酒は法令によって20歳からと決められている。この事実だけでも飲酒を「大人」の証として考えるには十分だろう。大学4年生である大宮は、20歳を超えていてもアルコールに耐えられない。これは「大人になれない」ことと同義である。つまりこの映画では、アルデヒド脱水酵素(ALDH)というアルコール分解酵素の活性が弱いことが「大人になれないこと」のメタファーとして機能しているのだ。

 主人公三人組は飲酒をするとたびたび『おジャ魔女どれみ』の思い出話をして現実を乗り越えようとする。つまるところ、この映画のALDHは『おジャ魔女どれみ』なのであるが、大宮にはこのALDHが上手く働いてくれず、悪酔いする方向に行ってしまうのだ。

 加えてこの映画では、現実との接点を持つ際に『自分⇔現実』という枠組みではなく、『自分→アニメ/SNS→現実』という枠組みを使おうとすると天罰のように物事がうまくいかなくなる。それは、主人公三人組が「魔法玉」を介して現実と触れ合おうとすると尽く失敗する様が描かれることから明確に読み取れるはずだ。

 大宮がSNSで炎上した過去を持つことは先にも触れたが、描かれ方を見るにそのSNSはどうもInstagramに近いもののようだった。Instagramと言えば「ストーリーズ機能」と呼ばれる24時間限定の投稿が人気だが、前述のアルコールに弱いという点を重ねてみると、大宮はどうにもSNSという「ヒトヨタケ」を食べてしまっているように思えてくる。

 ヒトヨタケは、漢字で「一夜茸」と書く。一日のうちに子実体(いわゆる「きのこ」の部分)を伸ばしたかと思えば、同じ一日のうちに自己消化によって溶けてしまうという不思議なきのこである。24時間という枠の中で成長し、溶けて消えてしまう姿は正しく「ストーリーズ機能」そのものだ。

 けれどもヒトヨタケの場合には、溶けだすことに理由があり、胞子(種のようなもの)を効率よく散布するために身に着けている機能であるとされている。胞子と言えば、冒頭から何度も登場するタンポポの綿毛はまさに胞子そのものである。面白いことにタンポポは集合花であり、花弁のように見えるもの一つ一つが花として成立している。そんな植物が、主人公三人組が芽吹くことの暗喩として使われているのは非常に興味深い。最終的に三人はMAHO堂のモデルとなった洋館でショップを経営するのだが、そこで各々が各自の能力を生かして関わり合う様子と共にエンドクレジットが流れることで映画は終わる。これは正しく集合花のあり方そのものではないだろうか。

 ……少し話がそれてしまった。

 さて、ヒトヨタケは食べられるきのこであるが、安全に食べるには自己消化を行う前(つまり、胞子を飛ばす前)の幼菌と呼ばれる状態でなければならない。さらに、ヒトヨタケを食べた前後三日にアルコールを摂取すると中毒を起こすという不思議な性質を持っている。

 大宮は、現実で人と接することに疲れを感じてSNSに希望を見出したが、結局それもうまくいかなかったということを、長瀬ソラに語る。そして長瀬ソラの告白に対し、『仲良くできたのは、二日間という短い時間だったからだ』と返すのである。

 最近ではTwitterでも「フリート機能」という24時間限定の投稿機能が追加されて話題になったが、大宮はSNSという、ヒトヨタケのように儚く消え去ってしまう疑似的接触が好感を持って迎えられる場に希望を見出した。それはまるで、自らの持つ酵素によって溶けだすという現実的な痛みを伴う生産的行為を否定し、一種のきのこ恐怖症(マイコフォビア)としてヒトヨタケの幼菌を食べてしまう行為のように思えてくる。

 大宮は、SNS(あるいはスマホという"箱"に)疑似接触を見出したが、それさえも上手くいかなかったばかりか、現実を受け止めるための儀式としての飲酒さえも封じられたキャラクターとして描かれている。

 彼は、最終的にSNSへ投稿した写真を削除することを決めた。コレがポジティブなことなのか、ネガティブなことなのか。その結末までは描かれない。

 だが、『私はあの二人(吉月ミレと川谷レイカ)に出会えて、変われました』という長瀬ソラの台詞を聞いた以上、彼の中で何かが動き出したのではないかと想像する希望くらいは残されているだろう。

 現代を舞台にして「接触」をカギに物語を描く以上、スマートフォンひいてはSNSに触れないことはできない。それほどに現代を行く人々とスマホSNSは密接な関わり持っている。諸々を考えていくとやはりあのシーンは必要なシーンなのではないだろうか。結局、この映画でSNS描くのならば、大宮は炎上していなければいけなかったのだ。

 この映画では「魔法」さえうまくいかない。

 いわんや、SNSをや、だ。

おわりに

 重ねてになるが、非常に完成度の高い素晴らしい映画だった。

 上映館はかなり少なくなっているが、おジャ魔女どれみシリーズになじみの深い人はもちろん、シリーズを知らない人にも足を運んでいただきたい。「接触」が重要なこの映画は、スクリーンで見るのとPCやスマホの画面を通して見るのとではまた違った意味を持つ。原木栽培のシイタケのように一粒で二度、三度と美味しい映画なのだ。

 是非、映画館へ赴き、チケットと自撮りをする観客の様子や、パンフレットを楽しそうに眺める人の様子を確認しながら映画を鑑賞してほしい。

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