とらじろうの箱。

自分でプレイしたゲームや、読んだ漫画や本などについて書いています。なお、このブログではAmazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。

【ひらめき☆マンガ教室】雑記1【第4期】

雑記1

はじめに

 年もあけて随分と時間が経ちました。ひらマンも、すぐそこに折り返し地点が見えています。そこで、改めて考えを整理する意味も込めて、ぼくが考えていることを文字に残しておこうと思います。
 というわけで、普段の記事とは若干性質が異なります。暇があったり、興味があったりすれば読んでいただけると嬉しいです。

コメントについて

 当然のことなのですが、このブログはぼくこと「とらじろう」個人が、はてなブログの規約に則りながら好き勝手に記事を作成しています。したがって、ひらマン関係の記事も授業で求められているとか、誰から言われたとかそういう背景は全くありません。単にぼくがやりたいからorやった方が良いと感じているからやっていることです。もちろん、この活動を通して思わぬ幸運に恵まれれば喜ぶのだと思いますが、それがぼくの意思によってどうこうなるとは考えていません。

 また、ぼく自身は単なる読者であり、マンガ研究者でもマンガの権威でも著名なマンガ家でもありません。つまり、何度か断っているように、ぼくのコメントはあくまでぼくのコメントであり、何か学術的なあるいは権威的な裏付けがあるわけではありません。

 では、ぼくの文章の根拠はどこにあるのかと疑問が出てくるかもしれません。

 結論から言うと、客観的なそれはありません。ですが、ぼく自身が決めた基準は有り、それは、本人を目の前にして『この時はこう感じていたんです』と胸を張って言えるかどうかになります。裏を返せば、あとから見直せば頓珍漢なことを言っていることもあるだろうと思いながら、コメントを残しています。この態度は、人によってはひどく適当なモノに見えるかもしれません。けれども、少なくとも今のぼくにとってはこれが自分なりの責任の取り方だと考えています。

インターネットに感想をupすることについて

 時折、SNSにおいて『○○(SNSに存在する機能)を使うのは迷惑なのでやめてください』という書き込みを目にすることがあります。この項目では、この文言についてのぼくの考えを書いていきます。

 端的に言うと、『』のような思いがあるのならばそのSNSを離れ、別のSNSを使うべきではないか、と考えています。あるいは、『』のようなことはユーザー間で衝突することではなく、運営の側へ要望を出せばよいのではないかと考えています。

 具体的には、Twitterにおいてメンションを付けるか付けないかについて、他者の行動を抑制しようとする声を聴いたことがあります。この場合は、感情的には理解できる主張ではありました。ですが、メンション機能は昨日今日出来たものではありませんし、場合によってはブロックなどで自身が主体的に対応できる問題です。気に入らないことは理解できますがその場合はそう主張するにとどまるか、あるいは、コミュニケーション通して改善を図る他なく、相手に対して何かを強制することは難しいのではないかと思います。

 ぼくがメンションを飛ばす際にもこのような考えが下敷きにあります。
 一番初めにメンションを付けた際、『何かあれば直接お伝えいただければ対応いたします』と断りを入れていたのもこの考えに基づいています。また、ひらマンHPの個人プロフィールにTwitterIDの記載がある人に限っていたのも同様です。

 サービスは個人のモノではなく、あくまで個人と企業の間に交わされた契約に基づくものであるはずです(間違っていたら教えてください)。そのサービスにまつわる問題を個人と個人の問題に飛躍させるのは違うのではないか、というのがぼくの考えです。

コメントを残すことそのものについて

 ぼくがここでコメントと呼んでいるのは、マンガやネームを読んでぼく個人が感じたことを言語化したもののことです。したがって、そこには根拠を求める必要もないし、根拠があるのかと問われれば「ない」と即答します。

 ですが、コメントとは、他者の存在するコミュニケーションです。そう考えるとこれではあまりに無責任だというのはぼくも感じるところです。したがって、上述したような個人的ものさしを適用して自分なりの筋を通しています。

 どこまで行っても自分の範疇を超えないのではないか?

 それはその通りです。この点についてはぼくの力不足であり、謝るほかありません。

 それでもなおコメントを残し続けているのは、マンガは読者がいないと成立しないコミュニケーションであるという思いがあるからです。そしてたいていの場合、その読者というのは目に見えず、いるのかいないのかも分かりません。たとえ、ひどく不愉快なモノであっても(ぼくが意図的に不愉快なコメントを残しているという意味では決してありません)、そういうことを感じている読者がいるのだということを実感することそれ自体には何らかの意味があるはずだと信じています。

おわりに

 最近、まとめて「君(とらじろう)には何か野望があって、そのために日々邁進しているのだ。それに我々を巻き込むな」という旨のことを言われたり聞いたりしました。ぼく自身としてはそんな野望を持っている意識はないのですが、多くの他者の目にそう映っている現実を考えると、ややもするとそういうものがあるのかもしれません。

 けれども、現時点でそれが見えていない以上、ぼくとしては「そんなつもりはないのだが、そう感じさせてしまう行動があったのなら謝るほかない」というのが素直な思いです。

 というわけで、行為としてはこれまでと変わらずコメント記事を作成していくはずです。

 それでは。