【放談】『鮭らは海から川へ —フェミニズムの波を漂う— ゲンロン新芸術校 第6期金賞受賞者展』に行ってきたヨ【NO.14】
はじめに
大崎THTギャラリーにて2022/4/16~2022/4/24の会期で開催されている、『鮭らは海から川へ —フェミニズムの波を漂う— ゲンロン新芸術校 第6期金賞受賞者展』に行ってきました。
難しいテーマを取り扱いながらも親しみやすく、それでいて必要以上に分かり良いということもない。絶妙な作品群でした。映像作品をメインとした展示でありながらも、鑑賞行為そのものもコンセプトに取り込まれており、非常に体験的/身体的な経験になりました。
残された会期は少ないですが、可能な方には足を運んでいただきたい個展です。
以下には、個展の中でぼく個人が最も驚きを受けたことについて書いていますが、これは備忘録としての側面が大きいです。少しでも気になる方は、ぜひ、大崎THTギャラリーへ行かれることをおススメします。
個としての言葉のはずなのに
発想のきっかけは、制作者であるメカラウロコさんが小学生の時分に行ったサケ稚魚の生育体験にあるそうです。そのために本個展では、人工的に産卵・育成・放流・消費される、漁業資源としてのサケに焦点が当てられていました。
映像作品が主となる展示の中で、鮭らは基本的に1固体としての意識を明確に持っています。自分が産卵に対してどういう考えを持っているのか。食品として商品になることに対してどのように感じているのか、など。ある出来事に対して、鮭らは、各々の考えを持ち、各々の意見を述べています。
したがって本来であれば、鮭らの言葉を個魚(人)的なモノとして受け取ることができるはずなのですが、鑑賞者としてのぼくには、どうしてもそれができませんでした。
鮭ら一匹一匹にはバックストーリーが感じられ、個魚としての確かさが受け取られうるように作品が作られています。にもかかわらず、日常的にサケをサケとしてしか認識してこなかったぼくには、鮭らの言葉を、どうしても群れとしてのサケの言葉としてしか認識できなかったようなのです。
このことに気が付いたとき、ぼくは急に普段の自分が信用できなくなりました。日頃、対話相手の言葉を個人のモノとして聞いているつもりでありながらも、その実、ぼくは個人を個人として認識していないのかもしれない。自意識の外では個人としての他者を認めておらず、レッテルや記号の中に他者を押し込めていたのではないか。果てには個人として認識している自分自身でさえ、それはどこかがズレているのかもしれない。
そんな疑問が次々と沸き起こり、遡及的に、個人のモノとして用いられがちなフェミニズムの言葉は果たして誰のもので、なんのために使われているモノなのか、改めて考える必要があるように感じていました。
おわりに
本個展が取り扱っているテーマはある種、深刻なモノです。
ところが展示作品は鑑賞者が深刻になることを強いることはせず、あくまでも鑑賞者のペースで対峙できるようになっています。
非常に明確な作品が多いうえで、シンプルにはなり過ぎない。
絶妙なコント―ロールも効いていて非常に刺激的な経験になりました。
終了日まで時間はありませんが、足を延ばせる方には是非おススメです!!
会期: 2022.4.16 |土| - 2022.4.24 |日| 13:00-19:00(18:30最終入場)
入場料:無料
場所:大崎THTギャラリー 〒141-0033 東京都品川区西品川3丁目13−7