とらじろうの箱。

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【放談】マーケットから『祈り』を考える【NO.10】

はじめに

 本記事は、合同会社シラスによる放送プラットホーム『シラス』に開設されている『さやわかのカルチャーお白州』の名物コーナーである「おたよりコーナー」についての記事です。

 本文は、ぼくが送ったおたよりを転載したものになります。

 さやわかさんやコメントの反応が気になる方は是非、動画をご購入ください。また、「おたよりコーナー」の雰囲気や熱量が知りたい方は↓の記事もご覧ください。

toraziro-27.hatenablog.com

これがとらじろうの「おた田より衛門」だ!

 さやわかさん、みなさんこんばんは! とらじろうです。

 五月も半ばを過ぎ、暑さを感じる日々が増えています。

 夏バテの心配な季節になりましたが、皆さまは、いかがお過ごしでしょうか。

 

 夏バテ対策には肉を食べることが有効だとされています。それを思い出し、夕飯には鹿肉を食べてみました。いわゆるジビエという奴です。シソを巻き、すりおろしたショウガと塩コショウで焼き上げました。
 2月に採れた鹿だったので、少し心配していたのですが、とても美味しかったです。2月の鹿というと旬を過ぎていて、多少臭みが強いかと身構えていたのです(笑)。

 ……と言っても、これだけでは分からない方がいるかも知れませんね。すみません。

 一般的に肉の味は、運動量などの飼育環境と、飼育試料(=食べ物)によって左右されます。これはジビエにも当てまることで、ジビエの味は狩猟時期によって大きく変化することが知られています。従って、適度に運動していて、多くの食べ物を摂っている時期――つまりは春から秋にかけてが、ジビエの旬だと考えられています。この時期に狩猟した個体は、程よく油の乗った赤身(筋肉)が増えており、お肉として美味しい個体です。反対に言えば、旬を過ぎた個体の筋肉や油は少なくなっており、肉としての質は落ちていってしまうのです。2月というと、そこそこ時季外れなお肉でした。それにもかかわらず美味しかったので、この鹿はよほど良い環境で過ごしていたのかも知れません!

 ところで、旬、というのは食物を扱う際によく聞く言葉ですよね。辞書を引くと『魚介類や蔬菜 (そさい) ・果物などの、最も味のよい出盛りの時期。』(goo国語辞典より引用)とあります。

 この説明には疑問のないように思えますが、現代の食生活を考えると、少し奇妙にも響きます。というのも、現代において食物の調達は、自然ではなく、市場、すなわち「マーケット」で行われるからです。

 どういうことでしょうか。
 それを今から説明したいと思います。

 例えば、ブナシメジという人工栽培の可能な食用キノコがあります。ブナシメジの旬は10月~11月ごろですが、昨今では一年を通してマーケットに陳列されています。もう一例分かりやすいものを取り上げれば、水菜という青物(あおもの)でも同じです。水菜は水耕栽培がおこなわれており、12月~3月という旬に関係なく、一年間休まずマーケットに並んでいます。さらには、ブナシメジにしても水菜にしても、時期による味のばらつきは殆どなく、一年を通して安定した食味を楽しむことができます。
 まとめると、人工栽培の発達によって、マーケットに並んでいる食物の多くは収穫の面でも味の面でも均等化が進みました。
 従ってマーケットを前提に捉えると、旬の説明に書かれていた『最も味の良い出盛りの時期』というのは非常に捉えにくいことが分かります。

 そしてこのような視点に立つと、ラーメンハゲこと芹沢達也の名台詞、『ヤツらは ラーメンを 食ってるんじゃない。 情報を 食ってるんだ!』の裏に隠れた、面白い状況に目が向きます。というのも『情報を食べる』ための大前提には、マーケットの安全性と商品の均等化という背景が必用なことに気が付くからです。

 商品の均等化については、先ほど述べました。
 続いて、マーケットの安全性についてですが、こちらは簡単です。
 例えば、”ラーメンA”がある時には美味で、ある時には猛毒だったとすれば、人々はよほどのことが無い限り”ラーメンA”を食べようとは考えないでしょう。つまりマーケットの安全性とは、人々に『並んでいる商品には害がないはずだ』という共通認識を持たせる機能のことを示します。

 ぼくたちは食べられると考えているからこそ、それを食べようとします。そしてマーケットに並んでいる商品の品質が安定しているからこそ、根拠を持ってそれを買おうと思えるのです。

 もしかすると、「こいつは何を当たり前な事をクドクド言いよるんじゃ。マーケットに並んでいるものが食えるなんてあたりまえじゃろ」と思う方がいるかもしれません。

 ところが驚くべきことに、これは当たり前ではないのです。
 例えば、青森県の道の駅では、販売者がニラとスイセンを間違えて採取したために、30代と60代の女性が食中毒を起こした事件がありました。他にも近年有名なものでは『アクリルフーズ農薬混入事件』などもあります。

 とはいえ、このような例ばかりに気を取られていては、とても生活できません。

 シュレーディンガーの猫ならぬ、シュレーディンガーの食べ物です……。
 スーパーへ行くたびに「コレはかなりの確率で食べられるはずだが、実は食べられないのかもしれない。むむむ……。」などといちいち考えてはいられないでしょう。
 

 ここまで、マーケットには、消費者に対し、ある共通認識を持たせる機能があることを確認して来ました。一方でその機能は、時に揺るがされる得ることも、確認しました。

 先ほどはこの機能が揺るがされた状況を、量子力学の言葉を借りて「シュレーディンガーの食べ物」と言いましたね。

 これは商品の側に力点を置いた表現です。
 今度は「マーケット」の側に力点を置いた場合、マーケットの持つ機能は、――それが揺るがされ得ることまで含めて――どう表現できるのか模索してみましょう。

 ここで非常に優れた助け舟となるのが、小説家の舞城王太郎です。
 舞城は『好き好き大好き超愛してる。講談社文庫)』という本の中で、

 

 『祈るという一瞬の行為に僕達は救いも不安の解消も、問題の解決も、何も期待などできない。 祈りはあくまでも膝をついたり手を合わせたり頭をうつむかせたりして願いを言う、思う、その刹那だけに始まって終わる。 それ以上何もしないし何も思わない。 ただひたすらに欲しいものを欲しいと言うことが祈りだ』

 

 と書いています。(もし舞城を知らない方がいらっしゃれば、マンガ家の高遠るいによる『はぐれアイドル地獄変』第一巻にある『あとがき』を参照してみてください。同じことが全く別の言葉で書いてあります。)

 これは、マーケットで商品を手に取るぼくたちのあり方と非常によく似ています。
 ぼくたちは商品を手に取る時、ただひたすらに、安全性や均等性がそこにあると感じていて、そのことに関してそれ以上は何もしないし何も思わないのです。舞城の言う『祈り』は、言葉によって担われていますが、マーケットの場合には、マーケットそのものが『祈り』の舞台になっています。マーケットに乗り込んだとき、ぼくたち人間は無意識のうちにその舞台へ立つことになります。マーケットの持つ機能とは、つまるところ、『祈り』の舞台へ人々を誘いあげる機能なのです。

 

 さて、実はここからが本題で、ぼくはここでこの概念のさらなる拡張を試みてみますというのも、『祈り』の舞台へ人々を誘いあげる機能、というのは何もマーケットの専売特許ではないからです。

 考えてみれば、<社会>にもマーケットと似た機能があるのではないでしょうか。<社会>は安全性を供給し、様々なものを均等化します。人々はこの<社会>の舞台に立っているからこそ、無意識のうちに『祈り』に包まれ、シュレーディンガーの猫に囚われることなく、日々の生活を送ることができます。
 さらに、この<社会>というのはただ一つ存在するわけではなく、身の回りに無数に存在しています。ぼくたちはこの無数の<社会>を渡り歩きながら、様々な形の『祈り』に包まれて生きているのです。

 マーケットは数ある<社会>の内のひとつにすぎません。

 Twitterやシラスも、数ある<社会>の内の一つです。

 ぼくたち個人は、<社会>と<社会>の間に彷徨う><として、まじりあわないまでも、互いに鼻を突き合わせるくらいに<社会>を接近させることが可能なのです。

 具体的には、<アニメ>で<文学>を語ることによって<文学>の『祈り』に干渉したり、<マンガ>で<政治>を語ることによって<政治>の『祈り』に干渉することが可能だと思うのです。だからこそぼくは夏バテには十分気を付けて、カルチャーを楽しみ、言葉を紡いでいくのです。

 それでは、皆さん、お身体には十分お気を付けてカルチャーをお楽しみください!

おわりに

 上記の文章は音読されることを前提に書かれているため、ブログ記事として読む際には少し違和感があるかもしれません。多めに見ていただければ幸いです。

 このおたよりは舞城王太郎を読み、『祈り』という概念を手に入れた驚きを元に書かれました。フェイクニュースが云々。エビデンスが云々。ジェンダーが云々と言われ続けている世の中で、舞城のいう『祈り』は非常に役立つように思います。

 ぼくたちはそもそも分かり合えないし、エビデンスエビデンスであるエビデンスなんて無限ループしうるのだから、ぼくたちはその根元にある『祈り』について、もう少し敏感になってもいいのではないでしょうか。

 そんなことを思いました。

 どんな文章でもそうなのですが、いつも締め方に戸惑います。

 書き続けて型を見つけるしかないですなぁ。

 うっし。それじゃあまた。次の記事でお会いしましょう!