【放談】コミュニケーション【NO.9】
はじめに
ポリコレって何なんだろう、という話を今からする。しかし、ここで言うポリコレは極めて個人的なモノであり、一般的な解釈や学問的定義に当てはまるものではない。言ってしまえば『とらじろう’sポリコレ』である。
それならば単に日記として記録を残せばいい。何もネットの海へ投げ捨てる必要はないじゃないか、という考えはあった。それでもこうして公開する気になったのは、きっとポリコレなんていうものはどうしたって『X’sポリコレ』として存在するしかないんだろうなと思ったからだ。
万人に押し付けられる「政治的正しさ」なんて存在するはずがないのだ。だって、世界に「万人」なんて人間はいないのだから。そもそも政治は、複数存在して初めて輪郭が見えるものなのではないだろうか。
自分を知ることについて
ひょんなことから、古い友人たちと話す機会があった。
ご時世もあり、顔を突き合わせることはできない。いわゆるオンライン通話である。それでも懐かしい声と共に過ごせた数時間はとても心地よく、楽しいものだった。友人がいる事のありがたさを改めて実感した。
ところで20も半ばになると、話題は自然と誰と誰が結婚しただのという方向に進む(あるいは、税金などの金の話だ)。もちろんぼくもこの話題を楽しんだのだが、心の隅では常に引っ掛かりを覚えていた。『こうも無邪気に異性愛的婚姻制度を受け入れた会話をしていて良いのだろうか?』とか、そういう奴だ。
ついでにいえば、さっきの『自然と』という言葉の使い方にもきっと問題があるのだと思う。この『自然』は、シス男性/女性としての価値観が前提にあるからこそ出てきた言葉だろう。それを否定するのは難しい。
世界には様々な愛の形がある。当然だ。とはいえ頭でわかった気になっていても、いざ人と言葉を交えてみればすぐにぼろが出る。ぼくは所詮当事者ではないのだ。常日頃から気に留めていても、実際には異性愛的価値観を大前提に置いたまま会話をしてしまう。もっと言えば、異性愛的価値観を疑う気すらない『次はAの結婚かなぁ』という会話にさえ、ぼくは笑うことができる。それもすごく純粋な気持ちで、だ。
あまり理解されないことだとは思うが、ぼくにとっては結構つらい瞬間なのである。ジレンマとも少し違うのだが、自分の中でどうにも整理がつかない感覚があって、そのアンバランスさにしんどくなる。
だから考えた。
なんでつらいのだろうと。
そもそも、ぼくはシス男性で、基本的には異性愛に親しむことができている。
それならば素直にその感性へおもねっていればいいのではないだろうか。
その通りである。おもねるべきなのだ。
それなのにぼくは、意味もなく自分の価値観を押さえつけようとする。ぼくに足りないのはポリコレ的な知識でもなんでもない。まずは自分の中にある異性愛中心主義的な価値観を受け止めるところから始めるべきなのだ。
おそらくぼくは、自分の価値観を受け止めることとLGBTQにまつわる思想を支持することの間に、矛盾があると感じているのだろう。端的に言って馬鹿である。アニメやマンガに親しんできて、その中で紡がれる物語や描かれるキャラクターに心を動かされたのではないのか? それならば、自分が相手と同じでなくても相手のことを認め、受け止めることができるのだと、とうに知っていていいはずじゃないか。
実に愚かだ。
友人の幸せそうな表情や、楽しそうな声色を聞いてそれをヨシとできないことは、少なくともぼくにとって異常なストレスになる。こう書くと友人の側に視点が行ってしまうが、幸せそうだと思っているのや楽しそうだと感じているのは、ほかならぬ自分自身なのだ。
時間がかかるとは思うが、ここから始めなければすべてが嘘になる。
おわりに
いろんな書き方をしているが、現実的に起きたのは、友人とのコミュニケーションがぎこちなくなってしまったということだけである。でもこの体験が、なんだが自分の中ですごく大きなものになった。
ある場所で『とらじろうさん(の文章)は、外には開かれていないよね』と言われたことが引っ掛かっていたのもあるのだろう。あるいは、『君の問題系は外から与えられたものだから』という方かもしれない。
まあでも、本当のところを言えば、どちらでもないのかもしれない。結局は、友人と楽しく会話ができなかった事それ自体がひどく悲しく、つらい経験だったのだ。ここからスタートして、自分の書き換え可能性を失わずに過ごしていけたらいいよなぁ……。
それじゃあ、また次の記事で!