とらじろうの箱。

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【放談】ジェンダーの本を読んだら、サブカルの夢を見た。【NO.3】

はじめに

 お金のない大学院生の例にもれず、近場の図書館へ足を運んだ。3月を目前に控え、寒暖の差が激しいころ合いだったが、その日は比較的陽気な空気に包まれていた。ことの発端は、ポリティカル・コレクトネスの叫ばれる昨今、入門レベルでもフェミニズムの本を読んだことが無いのはまずいだろう、という気軽な動機だった。

 自動ドアを通り、思わず右に曲がろうとした自分に檄を飛ばし、左奥へと足を運んだ。普段は通らない本棚の前を通る。改めて図書館の広さを知るとともに、自らの視野の狭さに少し恥ずかしくなった。

 ぼくは、『ジェンダー論をつかむ(有斐閣:千田有紀・中西裕子・青山薫、著)』『私たちの「戦う姫、働く少女」(堀之内出版:ジェンダーと労働研究会、編)』『戦う姫、働く少女(堀之内出版:河野真太郎、著)』の三冊を手に取った。何を読めば良いのか分からず、大学で教科書として使われているらしい本と、薄くて読みやすそうな本を選んだ。

 とはいえ馴染みのない分野なので、読破には時間がかかる。

 途中、ひらめき☆マンガ教室の講義などの用事も入り、読み終えるのに2週間近くもかかってしまった。我ながら驚くばかりの怠慢であるが、この怠慢も良い方に転がることがあるらしい。

 ぼくは、この期間に「水上悟志」と「緑のルーペ」の読書会を行うことになった。

ゼロ年代サブカル批評とジェンダー

 結論から言うと、この読書会では『男性性によるサブカルチャー批評の抱えた限界』が主な論点になった。本来であれば、読書会の様子をつぶさに書き記したいのであるが、論点がずれてしまうのを恐れ、今日のところは端においておく。それでも、結論だけを抜き出せば、以下のようなことが話された。

  • ゼロ年代サブカルチャー批評は、男性的な視点が中心になって形成されたため、構造的な限界があった。その限界が、緑のルーペによる『青春のアフター』では明確に描き出されている。この限界は今や男性にとどまらず、女性も含めたオタク一般に拡大できるものなのではないか。

 このような視点に立つとき、ぼくは、当然のように国の制度設計まで視野に入れることができるジェンダー論の世界に、素朴な驚きを感じた。そして同時に、この視点からゼロ年代サブカルチャーを捉え直せば、いま目の前に広がっている広大な砂漠の向こうに、オアシスの蜃気楼くらいは見えるのではないかと希望を持った。

 ゼロ年代サブカルチャー批評が、ジェンダー的な限界を抱えているのは確かである。『母性のディストピア』なる言葉と共に、その向こう側を観測するかに思えた瞬間はあった。だが、結局は何も果たさないまま、ゼロ年代は一〇年代にバトンを渡すことができなかった。それは、目の前の砂漠の不毛さに、呆然と立ち尽くすしかないぼくのあり方こそが証左になるだろう。

おわりに

 今のぼくは、砂漠の中の砂に埋まることさえできず、ただただ立ち尽くすしか術を知らない。それでもオアシスの蜃気楼を捉えた人間として、このように記事を書くことはできる。これは、息を吸って吐いたというだけの営みかもしれない。それでも、以前よりはいくらかマシになったように感じている。

 少なくとも、この砂漠に酸素はあるようだった。ここにいても、呼吸はできる。

 ちっぽけな一歩を踏み出す時、ぼくは砂漠の暑さに皮膚を焦がすだけに終わるかもしれない。それでも、その時にあげる悲鳴ぐらいは、きっとどこかに届くのだと願う。