【さやわか文化賞2023】レペゼン”ぼく”【ニーツオルグ賞受賞】
さやわか文化賞2023応募作・ニーツオルグ賞受賞
以下、作品。
※応募作から誤字脱字を修正したものを掲載しています。
レペゼン“ぼく”
ぼく#1
やあ、きみ。こんにちは。
ぼくは“ぼく“。
ぼくは、きみにぼくの声を届けたくて、こうして筆をとった。
といっても実際にはキーボードを叩いているのであって、筆なんてもう十何年握っていない。でも、こういうとき、筆をとった、と書きたくなるのがぼくなんだ。
ぼく#2
「ぼくは“ぼく”」なんて、トートロジーに満ちた自己紹介をすると『ぼくのなつやすみ』というゲームを思い出してしまう。
きみはよく知っているかもしれないけど、『ぼくなつ』はナンバリングされたシリーズもののゲームだ。
2023年時点での最新作は、2009年に発売した『ぼくのなつやすみ4瀬戸内少年探偵団「ボクと秘密の地図」』。
このゲームの主人公は“ボクくん”というのだが、彼には名前が設定されていない。
彼が自己紹介をする時には決まって『ボクはボク』と返すのだ。
ぼく#3
ぼくはこれまでの人生でいろんな人称を使ってきた。
俺、私、自分、ウチ、拙者、吾輩、小生、ミー、ワタクシなどなど。
その時々の気分に合わせて、なんとなく使い分けてきた。
例えば、今は「おいら」の方がしっくりくるな、と思ったら「おいらは、」と自称する。
とはいえ、その時々で流行みたいなものはあった。
中学生の時分までは「俺」を多用していたし、高校生の時分には「○○君は、」と、他人がぼくを見て名付けてくれた呼称を使いまわすのがひどく心地よかったりした。
ぼく#4
そういえば、『ぼくなつ』は1~3までと4とでちょっと色が変わっている。
1~3では昭和50年(1975年)が舞台だったのが、4では昭和60年(1985年)が舞台になっているのだ。他にも、1~3の“ボク”は母親の臨月に伴い地方の親戚に預けられていたが、4ではその設定がなくなり、“ボク”は単に親戚の家へ遊びに来ているだけになる。
つまり1~3の“ボク“は「兄」になることが決まった結果として地方へ送り込まれているのだが、4の”ボク“にはすでに妹がいて、単に夏休みを楽しむためだけに地方へ赴いているのだ。
ぼくは、4の“ボク”のためにも、1~3の“ボク”を大切にしたいと思う。
モラトリアムを楽しんだあと、“ボク”から、兄に、そして“私”にならなくてはならなかった“ボク”のことを忘れずにいたいのだ。
モラトリアムを与えられることもなく、当然のように「兄」であり“ボク”である。
そんな4の“ボク”は、きっと夏休みがなくたって“私”になっていた。
それが昭和50年(1975年)と昭和60年(1985年)の間に横たわる10年という時間の重みだ。
それはそれでいいと思う。
でも、いま、社会はそんなに強くない。
ぼく#5
だから、ぼくは、ぼくになると決めた。
俺でも私でも自分でも、ましてやウチでもない。
もちろん“ボク”でもない。
だって、ぼくは“ボクくん”じゃないから。
それに、“ボク”になりたかったら『ぼくなつ』をやればいい。
だから、ぼくは“ぼく”になる。
そういえば、「とらじろう」というハンドルネームは吉田松陰から来ているのだった。
やっぱり、ぼくはぼくになろう。
ぼく#6
『ぼくなつ』の目的は、夏休みを楽しむことである。
楽しむべきその夏休みは、“ボク”が“ボク”でいることができる最後のモラトリアムだ。
このモラトリアムが終わったあと、”ボク“は”ボク“でいることを止め、自分を”私“と位置づけることになる。
この人称の変化は、ゲーム内で流れるナレーションから確認できる。
そしてこのゲームには、社会の中で“私”として生きる人々を、つかの間の”ボク“に戻すための仕掛けがあちらこちらにばらまかれている。
人は“ボク”のままでは生きられない。
でも、“私”のままでも、苦しい時がある。
社会に属しながらも、誰でもない自分である。
そんな存在になりたくて、ぼくはぼくになるんだ。
ぼく#7
やあ、きみ。こんにちは。
そして、ごめん。
きみに声を届けるために、ぼくは、まず、ぼくになる必要があった。
レペゼンするために、自分をなんて呼ぶのか、自分で決めなきゃいけないことに怯えていたんだ。
でも、今日、ぼくはぼくになった。
モラトリアムにいるわけでも、十全に飼いならされた社会にいるわけでもない。
ぼくは一人の人間になってみようと思う。
今思い出したけど、ぼくの好きなマンガのタイトルも『ぼくの地球を守って』だった。
ぼく#8
やあきみ。こんにちは。
きみの声はとてもよく聞こえている。
だからぼくも、がんばるよ。
またね。
End.